『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』シリーズファンの率直な感想。ネタバレ無し



「現実社会が風刺されている? フィンランドで映画『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』を見てきた」としてギズモード・ジャパンで記事を書かせて戴いたが、今回は作品に対する率直な感想を書かせて戴く。


私自身は初代三部作後に生まれたものの、特別編の前からの『スター・ウォーズ』ファンであり、自らをかなりコアなファンであると考えている。これまでの映画作品全てでそれなりに盛り上がってきたのだが、正直なところ『最後のジェダイ』はちょっと盛り上がりに欠けた感じだ。映像的な見所は沢山あるし、ドラマ的なピークもいくらかある。しかし全体としては良くも悪くも「おもちゃ箱をひっくり返したような」ハチャメチャさと雑多さが、まとまり悪く散らばっている感じだった。この点は『最後のジェダイ』を観の私の知り合いのフィンランド人は「ADHD世代に向けて作られた作品」と形容していたのも興味深い。

『フォースの覚醒』は何度も観たくなる作品では無いのだが、最初に観たときには興奮したし楽しめた。そして『スター・ウォーズ』シリーズ作中の性の役割転換、そして脇役に観られた人種のレプリゼンテーションの面からも意味がある作品だった。

『最後のジェダイ』とは言えば、性の役割やレプリゼンテーションの面からは驚きはもう無い(初めてアジア系の準主役が登場したのは興味深いがこれはTokenismと呼ばれても仕方ないだろう)。物語的には『帝国の逆襲』を大まかになぞっている。しかしその中で明確な「善悪」の戦いだけを描き続けてきたサーガシリーズに(『ローグ・ワン』程では無いにせよ)微妙な含みを持たせてもいる。『ローグ・ワン』の脚本家は『スター・ウォーズ』シリーズは常に政治批判的だと言っていたが、外伝である「スター・ウォーズ・ストーリー」にはまだしも、果たしてサーガに灰色的要素を持ち込むべきだっただろうか。

三部作の中間の作品である『帝国の逆襲』は、その前後の作品と違い善が単純に勝利する作品では無い。しかし本作はそれ以上のモヤモヤ感が残る作品だった。多数の小話や要素を詰め込みすぎた作品となっており、「ストーリーの山場」の山を登る途中に複数のでこぼこがすでに存在するため、「山」の高さがわからなくなっていたのもそのひとつの要因かもしれないが、もしかしたらそもそも「山場」の山に起伏がなさ過ぎたとか、山が斜めっていたりしたのかもしれない。

長年ファンとしてやってきた中で言えることは、きっとこの「詰め込みすぎ感」も時と共に消化/昇華されていき、一つ一つのシーンや要素が分解され、一本の映画としてではなく、分析対象であったりミームの塊のようなものへと変わっていくということ(あのキャラクターはあれを食べたか食べなかったかとかね)。『エピソード9』が銀幕を照らす頃にはすでにそうなっている事だろう。

そうなることは脇に置いても、これはあくまでも三部作の中間の作品であることも忘れてはならない。『エイリアン:コヴェナント』に対する『プロメテウス』のように、『最後のジェダイ』も『エピソード9』が現れることによって初めてより深い意味を持つ作品になるのかもしれないのだ。

『フォースの覚醒』で紹介された新たなキャラクターたちそれぞれにより深みが出たのは事実だ。だがそれでもここまで長い尺を使って、一本の映画としての統一感を犠牲にしてまで、細々とした物語を沢山描くべきだっただろうか?『ハリー・ポッター』映画版のラストみたいに分割して「エピソード8パート1」、「パート2」みたいにすれば良かったのに。

冗談はさておき『最後のジェダイ』の公開直後のレビューは(少なくとも英語圏で有名な)大手エンタメサイトがそろって「『帝国の逆襲』に次ぐ名作!」と言っているのはキモいと感じるほどだった。『エピソード9』はJJエイブラムスが監督するとのことなので、内容の善し悪しは別として、映画としては綺麗にまとめてくれることだろう。


(abcxyz)

コメント