阪神・淡路大震災から20年。これを機会に祖父母の(鳥取で起きた)震災の記憶を書き残そう

Yahoo! Japanが「阪神・淡路大震災から20年」と題して特設ページを設けている。

書いてあることが為になるが、モダンなヴィジュアル重視のページとなっているためそこに載っている地震に対する備える為の重要な知識が見づらくなっているので、主に自分のためのメモとしてまとめた。

・死因の77%が家屋や家具転倒による窒息と圧死。

・電気関連の火災が139件中85件。

・水道の復旧には90日、ガスは83日、電気は7日、電話6日掛かった。

・運転中に地震があったら、放置車両は緊急車両の通行の妨げとなったので、キーをかけたまま通路脇に置き避難。

家の中で倒れたら危ないものはどうにかしないとな。あと、「火事」と聞くとガスのほうが危なく思ってしまうが、火災の半数以上が電気関連だったというのは驚きだ。また、水道の復旧には時間がかかるので、水の蓄えや、水濾過装置などを買っておくのもいいかもしれない。

私自身は阪神・淡路大震災の時はまだ幼く、鳥取市におり、地震発生時には「冷蔵庫から取り出した卵をテーブルに置いたらひとりでに動き出して怖くなる」夢を見て起きたら震度4の地震が発生したことくらいしか覚えていない。東日本大震災(2011年)は三鷹の森ジブリ美術館で経験した。

祖母は東京で関東大震災(1923年)を経験した後、鳥取では鳥取地震(第二次大戦中の1943年、その後は1952年鳥取大火も)を経験しながらも生き延びている。

忘れないうちに、祖母が経験した自然災害について生前話してくれたことを書いておこう:

関東大震災
関東大震災では、立てないほどの揺れで、材木屋であった祖母の家の玄関付近に立てかけてあった木材がバタバタと倒れてきたそうだ。幸いにも祖母は家の外にいたそうで、近所の(祖母が憧れていた)お兄さんが肩車してくれて、一緒に避難したそうだ。また、当時は人種差別的なデマにより殺された人たちも居たと祖父母は語っていた。

鳥取地震
鳥取大地震(おおじしん)、鳥取大震災などとも言われるこの鳥取地震では、鳥取の立川に当時あった家に、職場から靴のまま家に入り戻ってきた。家に帰る途中の家々はぺちゃんこに倒れており、道も割れていたので大変だと思い駆けつけたのだが、立川付近は家が倒れることもなく大丈夫だったという。

鳥取大火
鳥取大火では祖母は火事場の馬鹿力も発揮し、タンスの引き出しごと運び出したりもしたという。しかし家は焼けてしまい、醇風小学校付近(?西町?)に仮設住宅が立ち、そこに住んだそうだ。祖父は大火の後には仕事(検察庁)でNHKのビル(?)のてっぺんに登って市内の被害状況の写真を撮ったそうだ。

こちらは鳥取大地震か大火かはよくわからないが、所謂「火事場泥棒」もあり、祖父母も被害を受けたようで、他の人が持っていた自分のものを発見して取り戻したという。

・鳥取の水害
第2室戸台風(1961年)か伊勢湾台風(1959年)のどちらかでは、「玄関の戸が飛ばされる」ということでとを一晩中、引き戸押さえていなければいけなかった。西中か醇風小学校に消防車で避難する人も居たが、家には寝たきりの祖父の母もおり、畳ごと逃げようという話になったのだが、祖父の母はそれを拒否。消防隊員が「私が付いていましょう」と言い、「食べ物は水屋にありますから」(当時は、毎日氷屋さんが売りに来ていた氷をそこに入れて冷蔵庫としていた)と、親切な消防隊員さんに一晩面倒を見てもらった。祖父母とまだ幼かった母の避難の時には道路が狭く車が通れなかったため、ボートで避難したそうだ。


(abcxyz)

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